介護が始まり・・

要介護、要支援、ケアマネージャー、デイサービス、ショートステイ・・・

 

今まで何となく聞いていた、いくつかの言葉が義母の介護に直面したことで遅ればせながら少し解り始めて来た。

 

高齢化大国、きめ細かな日本の介護システムだがシステムだけでは不完全で、その心棒は家族の支えに他ならない。

 

人は誰しも旅立つ時には自分の人生は「良き人生だった」と思いたいはずである。

 

在宅介護が始まった板橋の義母だが「身内に世話をかけさせて申し訳ない感」の負担も軽減できればと感じている。

 

 

小池都知事も江古田の自宅でガンのお母さんを在宅で看取ったと知った。

 

その体験が都の福祉行政にも反映されるに違いない。

カミさんの板橋の実家にはあちこち手すりを付けた。
カミさんの板橋の実家にはあちこち手すりを付けたり正面のトイレをリフォームしたり。とにかく始まったばかり、これからです。手すりの取り付けにはマキタのインパクトドライバーが活躍してくれます。

 

久し振りの海

久し振りにカミさんと海に出かけた。

 

お義母さんの介護で中々海に来れなくなってしまったけど、波の感触を味わうように彼女はメローな波を気持ちよさそうに乗っていた。

 

天気もイイし、水も綺麗で、ヤッパリ海に浸かるとリフレッシュ出来るね!

 

そんな自分は完全にジイさんのサーフィン。

 

よっこいしょ、って感じかな?

 

 

でも、フラーッと現れて数本乗ったらスーッと去っていく。

 

そんなジイさんサーファーでイイと思っているんだ。

 

遅い午後、海は空いていた。
遅い午後、海は空いていた。体力の衰えと共に乗る波数は減るが一本の波から得る喜びは増える。エネルギー不滅の法則。

荒木一郎・・二つの夏の想い出

「荒木一郎デビュー50周年記念ライブ・空に星があるように」に行ってきた。場所は渋谷のオーチャードホール。こんな事でもなきゃ渋谷なんて歩きたくないのだが。

 

そのライブの一曲目に荒木一郎が歌ったのは、懐かしい夏を想い出させる「君に捧げるほろ苦いブルース」だった。

 

大学生の夏休み、私は海水浴場の監視員のバイトをしていた。そこに同級生のキヨヒロが偶然現れた。キヨヒロは中学を卒業すると寿司職人の道に進んだと聞いていた。小学生の時は仲が良く一緒にグループサウンズのレコードなんかを聴いたりして遊んだものだった。私はバイトの後で彼を訪ねた。

その中でキヨヒロが付き合っている彼女が荒木一郎の曲が好きだという話になった。特に「君に捧げるほろ苦いブルース」が好きで、だけど彼女はその曲を聴くと死にたくなっちゃうんだと・・そして実は手首に傷があるんだと続けた。

キツイ話を静かに話すキヨヒロの顔はスケボーやサーフィンにカブレ始めていた私には凄く大人っぽく見えた。

「愛しのマックス」や「今夜は踊ろう」の荒木一郎しか知らないでいたがキヨヒロと会ってすぐレコード屋でベストLPを買い段々とセンチメンタルな曲を好んで聞くようになっていった。

 

それから数年後、千倉の海岸に高名な写真家の別荘が建った。夏になると写真家はそのアンドリュー・ワイエスの絵にありそうな別荘でバカンスを過ごしていた。縁あって私も時々別荘に遊びに行かせてもらっていた。

ある年の夏の夜、二階のデッキで写真家の家族や友人達で賑やかな酒宴を楽しんでいた時だった。古いラジカセから荒木一郎の「君に捧げるほろ苦いブルース」が流れてきた。ハワイアンやジャズやラテンなど洋楽を好んでいると思っていた私は、写真家が荒木一郎のカセットテープをかけた事が意外だった。

キヨヒロの彼女の話を思い出した私は写真家に「この曲、悲しくなりますね・・」と話しかけた。写真家は大きくうなずき「そうなんだよ!」といった表情を見せた。

それは確か、千倉のお盆の花火大会の夜だった。

 

荒木一郎のセンチメンタルさには一種の魔力性があるんだと思う。

 

オーチャードホールに集まった荒木ファンの50~70代の人達も色んな想いを抱えて来たんだろうな。

ゲストの宇崎竜童と中村雅俊の歌も良かった!
ゲストの宇崎竜童と中村雅俊の歌も良かった!荒木一郎の声は輪郭が曖昧だからボサノバとか歌っても絶対イイよね。

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